前回までに下記の神戸市内の紹介をしてきました。
北区の紹介
西区の紹介
垂水区の紹介
須磨区の紹介
長田区の紹介
今回は歴史の残る兵庫区の紹介です。
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Contents
兵庫区の概要
兵庫区の歴史
その昔、兵庫区がある今の兵庫港のあたりは六甲連山によって北西の季節風が遮られ、和田岬によって西からの波浪が防がれ、さらに水深と投錨に適した海底の砂に恵まれて天然の良港が形作られていました。奈良時代の昔より、瀬戸内海の交通の要衝として、また、外交の窓口として歴史に名をとどめています。
平安末期には、その港に目を付けた平清盛によって港が改修され、清盛の手により日宋貿易の拠点となり、福原には一時都もおかれ、我が国の政治の中心地ともなりました。
そして幕末、兵庫港の開港を諸外国より求められた幕府は、あえて当時人口希薄な、東隣の一漁村神戸を開港し、現在の神戸のモダニズム発展へとつながっていきます。
それ以降港を中心とした発展を遂げた兵庫には大正から昭和にかけて三菱重工、川崎重工などの大企業が次々と進出し、労働者のまちとして大いに賑わいました。そして湊川の河川掛け替え工事により登場した「新開地」には、「ええとこ、ええとこ..」とうたわれた「聚楽館」をはじめ、数々の映画館、演芸場、寄席などが建ち並び、「東の浅草、西の新開地」と呼ばれるまでに至り、戦前戦後の大衆芸能、大衆文化の発信拠点として、その中心的役割を果たしました。
ひと、まち、みなと..。その間に歴史が息づいてきた、古き良きまち並み。兵庫区は、現在の神戸を語るうえで、欠かせぬ歴史を秘めたまちといえるでしょう。
兵庫区のハートン
ハートンは、この区政の基本方針を多くの区民のみなさんに知ってもらい、また親しんでもらうため、平成16年4月、公募によって誕生したシンボル・キャラクターです。
デザインは、兵庫区の頭文字「ひ」とやさしさと思いやりをイメージしたハートをモチーフにしています。
性格:やさしく思いやりがある。
長所:頭にハートが生えてくるぐらい愛で溢れている。
短所:転ぶと起き上がれない。
特技:タップダンス、ムーンウォーク
好きな食べ物:クッキー
苦手なこと:狭い所を通る
趣味:寄席観賞
平清盛の清盛塚
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平清盛と神戸
平清盛は、のちの兵庫の港でもある大輪田泊(おおわだのとまり)を修築し、1180年には福原へ遷都を行った神戸にゆかりの深い人物です。
神戸市兵庫区。その南部の港は、平安時代、大輪田泊と呼ばれました。
当時この港は東南からの風波をまともにうけて停泊が危険でした。そのため、朝廷は弘仁3年(812)以来しばしば港の改修を行っていました。
福原に別荘を構えていた平清盛は日宋貿易の拠点として大輪田泊を重視し、承安3年(1173)に私財を投じて改修を行いました。
清盛は港のために防波堤となる島を築き、船を風から守ろうとしたのです。
具体的な詳しい場所は今もなお不明のままですが、その島の名前が経ヶ島(きょうがしま)と呼びます。
清盛は治承4年(1180)には、国家的事業として大輪田泊の大規模な整備を計画しましたが、源平争乱によりほとんど実行されなかったと思われます。
そんな清盛のお墓と伝わっているのが兵庫県の指定文化財でもある兵庫区の十三重の石塔です。
長いこと平清盛墓と伝えられてきたが、大正12年に電車の道路拡張工事のため現在の場所に移転する際の発掘調査の結果、残念ながらお墓ではなく供養塔である事がわかりました。
しかしそれでも兵庫区の清盛塚は地元で大切に供養されています。古くから平清盛が兵庫の発展に力を注いだ恩人という思いがあったことは確かでしょう。
清盛塚の場所
最寄り駅がJR兵庫駅になりますが、案内はちょっとこまごましてしまいます。
とりあえず、
・駅をでて南側(海側)に進む。
・兵庫運河まで来たらそのまま東(兵庫運河を向いて左)に進む。
・県道489号線沿いに歩いていると左に見えてくる。
です!
けっこうこの地域は歴史的な建造物なども多いので楽しみながら進むのも良いですね。
能福寺
能福寺の歴史
能福寺は延暦24年(805)に最澄が開創。日本最初の教化霊場として生まれました。
前年の延歴23年に桓武天皇の勅命を受けた最澄は唐の国(中国)に留学、その帰路に兵庫の港(大輪田の泊)に上陸したのが能福寺の歴史が始まりました。
その後平清盛が出家し、江戸時代初期から明治維新まで、京都青蓮院門跡の院家職を勤め、京都以西では西日本唯一の格式を有している能福寺。
また境内には、日本の新聞の父といわれるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が記した日本最初の英文碑や、本堂の御本尊として阿弥陀仏像や木造の観音様、戊辰戦争から姫路城を救った北風正造の石碑、などがあります。
そんな中にめちゃくちゃ目立つのが日本三大佛の一つに数えられる兵庫大佛です。
兵庫大仏
日本三大仏のひとつ。初代兵庫大仏は明治24年5月に建立。
大政奉還により成立直後の明治政府の太政官布告により、神仏分離令が発布された直後から廃仏毀釈運動となって日本仏教界は壊滅状態に陥りました。
更に数年後居留地から発信されるキリスト教が盛んになったため、保守的な兵庫の人々は切支丹に占領されると危惧しました。
こうした時代背景を受け、豪商南條荘兵衛の一大発願により兵庫の民衆はもとより仏教全宗派を挙げて建立されたのが初代兵庫大仏です。
大仏は兵庫港に入港してくる舟乗りたちから神戸のランドマークとして全国各地に伝播して日本三大仏と称されました。
惜しくも初代兵庫大仏は第二次世界大戦の最中、昭和19年5月に金属回収令により解体されました。
しかしながら戦後、解体された大仏を発見した当時の住職が回収保管し、平成3年の再建時に混入することで旧大仏と現大仏を一体無二としました。
数奇なことに現兵庫大仏の開眼法要は旧大仏が開眼された日から数えて、ちょうど100年と1日後の平成3年5月9日でした。
兵庫大仏へのアクセス
さいごに
以上、兵庫区の紹介をしました。
次回も兵庫区の紹介になります。たぶん。
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