前回須磨区の紹介をしました。
今回も須磨区の紹介です。
今回は歴史を感じる観光地の紹介になりました。
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綱敷天満宮
天満宮の歴史
綱敷天満宮は、学問の神様、天満大神菅原道真公を祀り、神戸では須磨の天神さまと親しまれ、合格祈願・学業成就を始めあらゆる御祈願に御利益があります。
全国一万社ある天満宮の二十五霊社のひとつとして歴史が古く、由緒ある天神さま。
春の頃には、きれいな梅が咲き、合格祈願、学業成就を願う人々で賑わい七五三の頃には、ご家族連れで境内は一段とにぎわいます。
道真公は九州太宰府に左遷された際、須磨の浦で波が高くなり航海を中断されました。その時、漁師達が網の大綱で円座を作り、お休みになられた事にちなんで創建されたのが綱敷天満宮です。
菅原道真公がお亡くなられてから76年後にこの地に創建されました。
ーちなみに天神様についてー
学問の神様、菅原道真公を祀る須磨の天神。
道真公は承和12年6月25日に京都でお生まれになり、小さい時の名前は阿呼(あこ)と申しました。
道真公の祖先は相撲で有名な野見宿禰(のみのすくね)という人でした、野見宿禰から14代目の人を古人(ふるひと)といい、古人は光仁天皇様にお願いして菅原という姓を名乗ることのお許しを得ました。古人はよく学問ができましたので、大学頭(だいがくのかみ)という位につき、朝廷で色々の講義を致しました。それ以来、菅原家は学問の家柄として栄え、代々有名な大学者が出ました。
五歳になった阿呼は、お供のじいやと紅梅殿のお庭先で遊んでいました。丁度紅梅が美しく咲いていました、それを見た阿呼は短冊に『美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある』と5歳でありながら、立派な歌を作られたのです。
道真公はやがて33歳で文章博士となり、おじいさんやお父さんの様に、大学で講義する身分になりましたが、間もなくお父さんも亡くなられ、菅原家の重大な責任は道真公一人の肩にかかってきました。そしてその立身出世を心快く思わない人、ねたましく思う人が多くなってきます。
仁和元年、道真公は突然、讃岐守(現在の香川県)に任ぜられ、都を離れることを命ぜられます。 京都を離れて地方へ下ることは、学者の道真公にとって決して良い事ではありませんでしたが、道真公は『政治の事は始めてだが、力いっぱいやろう』と言って村人を親切に教え導きました。飢饉の時には米蔵を開いて救いましたので、村人は心から道真公をお慕いしました。その中、道真公の良い政治の評判が京都へも伝わり、京都へ呼び戻される事になったのです。
京都に戻ってからも立派な仕事をし、遂に醍醐天皇様から右大臣に任ぜられました。これは、当時左大臣であった藤原氏が余りにも我侭勝手な行いをするので、お若い醍醐天皇様のためを思い、父上の宇多上皇様が特に道真公に命じられたのでした。そして、藤原氏の力を抑えようとされました。このことが、藤原氏一門の怒りを招く事となります。藤原氏は何とかして、道真公を右大臣の位から落とそうと藤原氏一門の人々と相談し、道真公が天皇様に対して良くない企みをしているという様なでたらめを天皇様に申し上げたのです。 天皇様はそれを信じられて「右大臣の位を免じ、太宰権師に任ず」と命じられました。昨日まで天下を治めていた右大臣が、今日は遠い太宰府に流されるというのです。余りにもひどい藤原氏のたくらみに口惜しく思われましたが、道真公は素直に家族の人と別れて九州へ下られる事となりました。
苦しい長い旅路の果て、やっと太宰府に着かれた道真公は榎寺という所に入れられ、その日その日の生活に困りながらも不平不満を言わず、人を恨むこともなく、ただ詩や歌を作って苦しい心を慰めておられました。また、ある時は天拝山の頂上に登られ、国家の栄える事と天皇様のおすこやかな事を祈られ、そして自分の罪が無実であることを天に訴えられました。生活は貧しく、書物を読む火をともす油を買うこともできず、雨は漏るままで直すこともできず、本当に哀れな有り様でしたが、再びなつかしい京都へ帰りたいとの思いを胸に、心だけはいつも清らかにまっすぐでした。
59歳の時、とうとう病気で亡くなられました。
文章を作られては一代の文学者、筆をとられては日本一、よく書物を作り、文化を高め、また政治をとっては国のため、人のためにつくし、一生誠の日本の心を持ち続けられた道真公も、とうとう九州の太宰府で寂しく亡くなられたのです。この様に、清らかな誠心をもって、大きな功績を立てられた道真公をお祀りしたのが天満宮です。
網敷天満宮へのアクセス
JRと山陽電鉄どちらかからも行けます。
JRの場合。
JR須磨駅下車
改札を出て左(改札は1つだけ)
車道に出て右に曲がる(神戸・大阪方面)
そのまま約10分程度歩くとその車道沿いに左側に見えてきます。
山陽電鉄の場合。
山陽電鉄須磨寺駅下車
改札を出て南側(海側)に進む
車道が見えてきたら左に曲がる(神戸・大阪方面)
そのまま約3分程度で見えてきます。
妙法寺
妙法寺の歴史
妙法寺は738(天平10)年、僧の行基(ぎょうき)が開基しました。
ちなみに行基は東大寺を建てた人物として歴史書に名前を残していますが、実は有馬温泉の復興にも力を注いだ人で、実は神戸市の歴史のいたるところに名前を残しています。
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話を戻して、源平合戦で有名な平清盛が福原に遷都の際、京都の平安京の鞍馬になぞらえ、ここを新鞍馬と称して福原京の鎮守の地として保護したといわれています。
本尊毘沙門天は、平安時代の木像で、国指定重要文化財です。
毎年1月3日の午後には勇壮な踊りの追儺式が行われます。
妙法寺へのアクセス
山陽電鉄の妙法寺駅下車して約10分程度
須磨寺(上野山福祥寺)
上野山福祥寺の概要
上野山福祥寺、別名が須磨寺は、神戸市須磨区にあるお寺です。
須磨寺略歴縁起(寺蔵)によれば、兵庫区和田岬の海中より出現し給える聖観世音菩薩像を安置するために、淳和天皇の勅命により、兵庫区会下山に、恵偈山北峰寺が建立。
後に、仁和2年(886年)に、光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が現在の地に上野山福祥寺を建立し、北峰寺より聖観世音菩薩像を遷し、本尊としてお祀りしたのが、当山の開基と伝えられています。
南北朝時代から江戸時代にかけて歴代住職が書き継いだ、当山歴代(県指定文化財)によれば、本尊聖観世音は嘉応元年(1169年)源頼政が安置されたとあります。
正式名は上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)であるが、古くから「須磨寺」の通称で親しまれてきました。
平敦盛遺愛の青葉の笛や弁慶の鐘、さらに敦盛首塚や義経腰掛の松など、多数の重宝や史跡があり「源平ゆかりの古刹」として全国的に知られ、古来より源平の浪漫を偲んで訪れる文人墨客も数多く、広い境内のあちこちに句碑・歌碑が点在しています。
須磨寺へのアクセス
こちらもJRもしくは山陽電鉄ともに向かえます。
JRの場合。
JR須磨駅下車
北方向(山側)へ徒歩10分〜15分程度。
山陽電鉄の場合。
山陽電車須磨寺駅下車
北方向(山側)へ徒歩5分程度。
さいごに
須磨区にはこの他にも多くの寺院、神社が点在しており、歴史を感じれる土地です。
六甲山系のふもとともなり坂道細道が多いのでもしまわるなら運動靴がおすすめです。
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