神戸市

神戸の観光コース!楠公が祀られている湊川神社とその周辺をご紹介!

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前回、神戸市兵庫区の紹介をしました。
兵庫区の紹介1

兵庫区の紹介2

兵庫区の紹介3

兵庫区の紹介4

今回も兵庫区の、観光コースの紹介です
今回は日本史にも出てくる、楠木正成(くすのきまさしげ)の観光コースをご紹介します。

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歴史背景

楠木正成とは

歴史好きの方なら説明がいらないほど有名だったりする楠木正成

 

しかし時代が時代なため名前だけしか…という人もいるかと思います。

本当に簡単に紹介しておきますと、

 

 

 

 

時は鎌倉時代から室町時代に移りゆく南北朝時代。
日本に天皇陛下が京都と奈良、2箇所同時に存在するという異例の時代。

 

当時の天皇である後醍醐天皇を追い出し、新しい天皇を自ら選出した足利尊氏に対抗したのが楠木正成でした。

 

九州から大軍を率いてきた足利尊氏を、死を覚悟して迎え撃つ楠木正成。

 

自害する最後まで後醍醐天皇への忠誠を貫いた楠木正成を祀るために建てられたのが神戸駅前の湊川神社であり、判官贔屓と言われる所以でも有ります。

 

これをただの美談と読むか道徳的と読むかは南北朝の歴史を紐解くかどうかで分かれると思いますが、今回はその楠木正成のゆかりの地を追っていきます。

兵庫に合戦場が多い訳

上記のように九州勢を連れてきた足利尊氏と、迎え撃つ京都勢。
コレ以外にも平家と源氏が戦った須磨区の一の谷など。

兵庫の地域はなぜか戦いが繰り広げられてきました。

 

なぜ兵庫の地域はこんなに合戦場が多いのか。

 

それは、当時の政治の中心である京都と西国を結ぶ「出入り口」だったからと言われています。

 

 

京都に攻め上がる西側の軍勢と、それを防ごうとする朝廷軍の衝突。
京都からにしに逃れる軍勢と、それを追う軍勢の衝突により、兵庫に名だたる古戦場が増えた理由と言われています。

 

 

 

話を戻して、次から観光地の紹介です。

湊川神社

湊川神社の概要

湊川神社は兵庫区ではなく住所が中央区ですがゆかりの地として入れてます。

 

湊川神社は永元元年(1336年)、湊川の戦いで自害した楠木正成とその息子、正行(まさつら)が祀られている神社です。
創建されたのは、初代兵庫県知事でもある伊藤博文が尽力し、明治5年(1872年)に建てられました。

 

境内には元禄5年(1692年)に水戸黄門の別名がある水戸光圀公が家来の佐々介三郎を使わせ建てさせた楠公墓碑があり、「嗚呼忠臣楠子之墓」という文字は光圀公の筆によるものと言われています。
また自害の場が本殿の西側奥にあり、墓碑とともに国に重要文化財に指定されています。

 

現在では地元の方から「楠公(なんこう」さん」という愛称で親しまれています。

湊川神社へのアクセス

湊川公園にある楠木正成像

湊川公園の概要

湊川公園は湊川地区にある歴史ある公園です。

 

昔は水族館などもあったと言われていますが、今はなく、現在は新開地の音楽祭やお祭りなどイベントや地域のガーデニングの場として賑わっています。

 

 

そんな湊川公園の中に楠木正成像が有ります。

 

 

昭和10年(1935年)、大楠公(楠木正成)六百年祭を記念して建てられました。
当時は公園の南部に建てられましたが、現在は公園北部に移されています。

 

周辺には大楠公六百年祭記念碑がある他、桜の木が植えられており花見スポットとしても有名。

 

夜にはライトアップされその勇姿が映し出されます。

湊川公園へのアクセス

会下山公園にある本陣の碑

会下山公園の概要

会下山(えげやま)公園は上記の湊川公園からちょうど西に位置する、街の中にある緑豊かな公園です。

 

桜の名所としても有名で神戸市の「新・こうべ花の名所50選」にも指定されています。

 

また公園の中を周遊する園路でウォーキングやジョギングをする姿も多く、ご近所の憩いの場となっています。

 

そんな会下山公園内に本陣の碑が建てられています。

 

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由来は湊川合戦のときに楠木正成がこの山に本陣を置いたと伝えられていることから。

 

楠公の陣所は「太平記」には「湊川の西の宿」にひかえて陸路の敵に備えたといわれており、「梅松論」では「湊川の後ろの山より里まで」と記されています。

 

ちなみに、この本陣の碑に刻まれている「大楠公湊川陣之遺蹟」の文字は、日露戦争でも活躍した東郷平八郎の筆によるものです。

会下山公園へのアクセス

福海寺

福海寺の概要

兵庫七福神の記事でも紹介した福海寺兵庫七福神の紹介 )ですが、楠木正成を湊川合戦で打ち破った足利尊氏が在庵円有(ざいあん えんう)に開かせたと言われています。

当時は二本松(JR兵庫駅の西)にあったが、嘉吉の乱(1441~3年)で焼失し現在地に移されてます。

 

柳原惣門の要所に位置しているため、兵庫城の守備の役目をしたとも言われています。

 

今では大黒天をまつり、毎年1月9日~11日には大黒祭が催され、近所の柳原蛭子神社も同日に催される十日えびす大祭とともに参詣客でにぎわいます。

福海寺へのアクセス

福厳寺

福厳寺の概要

福厳寺(ふくごんじ)は釈迦如来を本尊とする禅宗南禅宗寺派の寺院で、14世紀に開かれたと伝えられています。

 

元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が現在の島根県にある隠岐島から京へ戻られる途中、この寺に立ち寄って一時的に使われた際に、楠木正成や赤松則村など数千の公卿や武士が後醍醐天皇をお迎えにあがりました。

 

また、この寺は後醍醐天皇が隠岐への途中、「湊川の西の宿」で泊まられたと記録されていることから、当時は会下山のふもとにあったのではないかとも言われています。

福厳寺へのアクセス

阿弥陀寺

阿弥陀寺の概要

阿弥陀寺(あみだじ)は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院です。

 

境内には戦災で変形、変色した「楠公供養石」が有ります。

 

 

これは湊川合戦で「魚の御堂」に本陣を置いた足利尊氏らが、敗れた楠木正成の首を置いて首実検(首あらため、とも)をした石だと伝えられています。

 

 

その後、後世にこの石は大河ドラマにもなった黒田官兵衛の長男、黒田長政の神戸別邸に有りましたが、兵庫の絵屋(鷹見家)に譲り渡され、鷹見家より寄贈されました。

 

またこの石は明石の語源となる赤石であるとも言われています。

阿弥陀寺へのアクセス

薬仙寺

薬仙寺の概要

福海寺と同じく兵庫七福神にも選ばれている薬仙寺(やくせんじ)ですが、こちらの記事(兵庫七福神の紹介 )にも書かれている通り、後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出し、福厳寺に身を寄せた際、薬水を献上したことから薬仙寺の名を賜ったとも伝えられています。

 

もとは天台宗でしたが、延文元年(1356年)時宗に改宗しました。

 

本尊の薬師如来坐像は国の重要文化財に指定されている他、境内に「後醍醐天皇御薬水薬師出現古跡湧水の碑」「神戸空襲戦没者慰霊碑」「萱の御所」などが有ります。

 

延宝8(1680)年に記された『福原びんかがみ』によると、『萱の御所』は『牢の御所』とも記されており、平清盛が後白河法皇を閉じこめていた場所だとも伝えられています。

 

 

実際の萱の御所の位置は、夢野にあった平教盛邸とする説が有力とされています。

 

 

また飢餓に苦しむ鬼や霊を供養する施餓鬼会を行なった最初の寺としても有名です。

 

薬仙寺へのアクセス

さいごに

兵庫の地に点在している寺院や石碑も、このように歴史を遡っていくと当時の物語が見えてきそうですね。

 

また教科書に載っているような有名人が時代を超えて同じ場所で様々な想いを馳せていたのも感慨深いものです。

 

鎌倉時代から室町時代にかけての大きな時代に触れる観光コース、半日ほどで回れるのでいかがでしょうか。

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